インドネシアの街には一般的に「見られること」に対する配慮があまり感じられない。はっきり言って美しくない。ゴミの散乱が目立ち、見えるものの多くは造りが粗く、かつ排ガスにまみれて幾分グレイッシュな色彩になっている。路面のほか側溝や信号機なども壊れたまま放置されている期間が長く、クルマとバイクがひしめき合う道路に沿ってタバコや携帯電話などの大きな広告塔が林立している状態である。
ところが、それらは美観の点からは確かにマイナス要素だが、それだけで街全体に汚いという印象を与えるには不十分だと思う。それらがすべて改善された風景を想像してみても印象は変わらないように思えるからである。猥雑であること自体はその街の特徴であるとも捉えられるし、実際、街にあふれるカキリマ(屋台)やベチャ(自転車タクシー)は、そんな風景にこそ馴染むだろう。街が汚いというイメージは、目に映る個々の要素ではなく、街をそのようにしていて平気な社会に対する、視覚以外の情報も含めた総合的印象に関係しているのではないだろうか。汚く見られているのはゴミやクルマではなく、街の管理水準をその程度にしている社会であり、人だろう。
街の惨状とは対照的にインドネシアの農村地帯の風景は美しい。山地の棚田はもとより、平地でも地形に逆らわない形状で耕作された水田には、あぜ道に並ぶバナナの木、休憩小屋、牛、アヒル、そして共同作業中の人々からなる光景がある。気候と地形の制約から合理的に導かれた結果としてあるその景色には必然性がある。
日本で都市を語る際に頻繁に使われたアメニティという言葉は「快適さ」という程度の意味だったが、快適であるための条件は、「しかるべきものがしかるべく存在すること」だという説明をどこかで読んだことがある。文化に関係なく伝統的建築様式が美しいのは建築物の意匠によるだけでなく、その土地の風土に最適化された結果としての必然性を伴っているからだろう。農村の風景からは、自然的条件に最適化された調和が感じられる。「しかるべく存在する」とはそういうことだと思う。
しかるべき状態にあり続けるためには、外部からの影響に対処していかなければならないが、インドネシアの街ではそうした外力(街を市場として見るような、外の文化からの圧力)に対抗するだけの準備がないまま急速に都市化が進行した。必要な都市基盤整備を伴わないまま、市街地の範囲と経済活動はその規模だけが大きくなった。ジャカルタでは高層ビルが乱立しているが、耐震性を含めた建築基準は不十分でしかもそれすら守られていないと言われている。実際、建築途中のビルはカードの城のように風で倒れそうなほど脆弱に見える。土地利用規制を通じて都市の経済活動を適正に制御する道具であるはずの都市計画制度は導入されるのが遅すぎた。機能するとしてもそれはまだかなり先の将来のこと。経済指標の面では目覚しく発展しつつあることになっているインドネシアだが、物理的基盤や制度的基盤の面で安心できる材料は乏しい。
自らが置かれている境遇は所与のものとして安易に受け入れられてしまう土壌がイスラム社会にはあるように見える。現行制度の固定化は所得格差の定着または拡大である。社会の不公正や理不尽を追及して仕組みを改善しようとするエネルギーが内発的に湧かないのであれば、文化的に洗練されて社会が成熟していく流れはどのように始まるのだろうか。その点は心許ないが、一方で、低所得層の人々は社会的に信頼できる保障もない中で明るくしたたかに生きている。貧困が不幸を意味せず、経済成長が社会制度の発展を意味しないことを改めて認識させられる。
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