首都ジャカルタでは、不十分な土地利用規制のもと、街路網と鉄道網の整備スピードを超えて交通需要が拡大している。自動車交通への依存、渋滞の常態化、大気汚染等により、都市活動は非効率化し、生活環境は悪化した。ジャカルタ以外の都市も同様の道を歩んでいる。
ジャカルタの街路を通行するのはバス、一般乗用車、タクシー、バイク、バジャイ、自転車、リヤカー、カキリマ、その他の物売り、そして歩行者。路線バスでは大型バスよりもメトロミニなどの中型バスが主流で、小型バス(アンコッ)も多い。バジャイが走るのはジャカルタだけ。中心部で禁止されたベチャも一部の地域では営業中。以前はあまり見かけなかった自転車も徐々に増えている。車道相当部分をクルマが通行し、バイクはクルマの隙間を縫うように走り、その他はクルマと路肩の間を通る。しかし、カキリマなどは営業時には位置を固定するし、バジャイやベチャは路肩で客待ちしている時間が長いので、通ると言うより居ると言った方が正しい。人も長い距離を道路に沿って歩くよりは、バスを待ったり、チェスをしたり、何か食べていることの方が多いだろう。そのための場所は、路肩に歩道があれば歩道上、歩道がなければ沿道建物の駐車場と車道の間の曖昧な空間が使われる。固定型簡易店舗であるワルンなどは歩道上や駐車場の一角を占有している。カキリマやワルンで食事する客のために店主がイスを置くのもそうした歩道や駐車場。夜になると歩道や駐車場は店ごとにシートで仕切られ、イスが並べられ、本格的に食堂街と化す。このように、街路の路肩付近はもはや通路ではなく、人々の生活の場となっている。
さて、このように人々の生活空間である街路だが、断面構成の中で歩行者空間が十分に確保されているわけではない。街路幅のほとんどはバスとクルマとバイクとバジャイがひしめき合っている。申し訳程度の、あるいは排水溝を覆蓋しただけの歩道があるが、幅はせいぜい1~2メートル。大木の街路樹や植栽用の大きな壷が歩道の真ん中にあることが多い。路面のインターロッキングは木の根に波打ち、あるいは渋滞時にバイクが走るためか一般に壊れており、長い距離を歩く気にはならない。また信号のある交差点は少なく、横断歩道もあまり見かけない。街の構造は歩行者にとって甚だ不便となっている。
そもそも自動車交通自体が想定されていなかったと思われる街路網と街路幅。その街でみるみるうちに交通量が増大した。もともと人が憩い、歩き、バジャイやベチャが安全に走ることができていた街路にクルマが流入し、人々は路肩に押しやられてしまった。その間、クルマの通行を制限して人々の居場所を確保する施策には重点がおかれてこなかった結果が今の姿である。
ところで、このようにクルマ社会化が急速に進んだインドネシアの都市だが、街の人々はそんな理不尽な状況をただ耐え忍んでいるわけではない。どんなにクルマやバイクが多くても、道路の向こう側に渡る必要があればその場所で自らのタイミングで堂々と渡る。近くに信号がないからではなく、そこで渡りたいから渡るのである。渋滞する車列にカキリマが配慮することはない。ベチャもカキリマも、必要があれば大通りを斜めに一気に車線変更し、時に逆走することもある。バジャイも小さな車体で大きなクルマに遠慮することなく対等に張り合っている。
こんな状況は日本人の目には交通の秩序が欠如していると映るかもしれない。しかし、確かに安全とは言えないが、これはこれで一つの秩序ではないか。歩行者が左右をあまり確認せずに横断してくるのはクルマの運転手の側も了解済み。日頃荒い運転をしていても(個人差はあるが)そうした歩行者や小さい車両を気遣うし、対クルマ、対バイクの場合とは違って歩行者をクラクションで威嚇することは少ない。そういう共通理解が全体で共有されているので、見た目ほどの危険さはないのだろう。危険横断を咎めるよりも、道を挟んだ両側を行き来する需要がある場所でそれを阻むような交通流が容認されていることの方が問題視されてしかるべきだろう。
考えてみれば、信号などは車両の通行を優先する中で歩行者に対して横断の時間をわずかに与えるための施設である。道路の向こう側に行くのに信号のある交差点まで歩行者が遠回りさせられたり、歩道橋で階段を登り降りさせられたりする制度により、事故は確かに減らせるかもしれないが、歩行者は不便を強いられている。交通の安全が、歩行者の利便性を犠牲にした形で達成されているに過ぎないのである。日本の子供は道路上での振舞い方を親や学校の先生から叩き込まれて育つ。人がクルマに対して過剰に遠慮する結果、信号のある交差点では小走りで渡り、信号のない横断歩道ではクルマが途切れるまで待ち、自転車は歩道を走るようになってしまうのだろう。
インドネシアにおける街路の、とくに車道と建物の間の空間の使われ方は、基本的に正しいあり方だと思う。インドネシアに限らず、東南アジアに限らず、どこの国でも、活気のある街の街路はそのような使われ方になっているのではないか。国によって違うのは、そのための空間がしかるべく確保されているかどうか。そのための空間が歩道幅の中に、あるいは歩道や車道とは独立して用意されていれば人もクルマも安心である。用意されないまま時を経てそうした活気を失った街もあるだろう。用意されないものの生活の一部として譲れないため、なんとか工夫して続けているのがインドネシアの街だと思う。
インドネシアの街の人々は、理不尽な制度下であっても強者に媚びることなく、現実の中で楽しい日々を送っているように見える。しかし近年は経済成長が続くなかで人々の生活も変わりつつある。「市民の多くがバイクを所有できるようになり、遠くからでも都心部に通勤できるようになった」のか、「月収の半分を2年間払い続けるようなローンを組んでバイクを購入してまで遠距離を通勤しなければならなくなった」のか。貧しさが不幸を意味しないのと同様に、所得の向上がそのまま社会厚生の向上というわけではないだろう。市民社会がただの市場として扱われてしまわないよう、文化的に成熟していくことを期待したい。
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